留年大学生読書日記

読んで字の如く

『メタ認知で〈学ぶ力〉を高める』/メタゲームと学問について

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はじめに:本書の概略

自律的な学習者を目指すために重要なキーワードとなる「メタ認知」。第1部ではその概念について,第2部ではよりよい学習法や教授法における科学的根拠について,読み切り形式で平易に解説。生涯学習が求められる現代において,単なるノウハウではなく,臨機応変に活用できる学習方略をあらゆる学習者に提供する。(Amazonより)

 前半は心理学における「メタ認知」の概念の紹介、後半は研究に基づいた学習法についてのtipsの紹介、といった内容の本。実は前半の内容と後半の内容はそこまで関係があるわけでもないようにも見える。

 後半はメタ認知という概念についてはそこまで強調せず、認知科学の研究に基づいた学習についての知見を紹介する内容である。研究論文の出典付きで、ちゃんとした認知科学の知見に基づき学習にまつわる実践的な内容を網羅している本書の内容は世間にあふれる大量の「勉強法」本と比べて何倍も価値があるもので、本書の評価の高さ、売れゆきの良さも納得である。

 一方で前半は心理学における「メタ認知」の概念についての概説。あっさりとした構成ではあるが「人間の思考能力の本質はメタ認知だ」ということを一貫して述べていて、やや物足りなさを感じつつも興味を惹かれると言った意味で入門書としては良い仕事。以下は雑感である。

「メタ」という語について、ゲームについて、学問について

 「メタ的であることが人間の能力の本質だ」といった言説についてどう思うだろうか。(本書を読んでいるとそんな気がしてくる。)

 「メタ○○」という用語について本書では「○○についての○○」という意味と「○○についての一段上からの認知」という意味の二つがある、といった説明をしている。(注意するべきはここで言う「認知」はcognitionの訳としての心理学用語であるということだろう。日常語としては「認識」に近い。)

 「メタ分析」や「メタ言語」などは「○○についての○○」の典型例だろう。一方、日常語としてはゲームにおいて「(キャラ名/戦略名)メタ」というような使われ方をすることも多いように思う。そこから「メタ」は「○○に対する対策」という意味であるような印象が形成されている気がするがこれは誤りである。ここでの「メタ」の使われ方は、「より上位の認知に基づいた対策」あるいは「メタゲーム(ゲームについてのゲーム)の略語」だと理解するのが本筋だろう。つまり試合が始まってからのプレイを競い合うのを通常のゲームだと理解した時、それ以前のキャラ選択やパーティー構築の段階での戦略によって、「通常のゲーム」を優位に進めようとする、ゲームのあり方についてゲームを仕掛けるより上位の認知に基づいた戦略こそが「○○メタ」である。軍事用語における戦術(tactics)と戦略(strategy)の関係にここでいう「ゲーム」と「メタゲーム」の関係は対応する。

 このように整理するなら、「メタ的であること」と「学問」は実は近い概念であると言えるかもしれない。農業に対する農学、経済活動に対する経済学、社会活動に対する社会学、健康に対する健康科学……などは、日常生活で行われている実践(農業、経済活動、社旗活動、健康維持)に対してより上位の認識に基づいてアプローチすることであり、いわば行っているのはメタゲームである。そしてそこから得た知見に基づいてなにか「アドバイス」をするならそれはメタ的な戦略を推奨することであり、まさにゲームでの「○○メタ」と学問的アドバイスは重なる。

 本書においてもこの構図はあてはまり、「通常の勉強」を人々がしているなかで「メタゲーム的戦略に基づいた勉強」を推奨するのが本書の後半の内容である。

 「メタ的であること」とは「社会や人間を対象とした学問」とかなり近い意味を持つ。だとすれば「メタ的であることが人間の能力の本質」であるならば「学問的アプローチこそが人間の本質だ」となるだろうか?

 この言明は一定の説得力は持ちつつも、同時にそうは思わないという人も多いだろう。

メタゲームの遊離

 ここでの「そうは思わない」とはつまり「人間はあるいは人生とは、学問だけで尽きるものではないだろう」という当然の主張である。学問的な知見が社会における状況を改善するのに常に役に立つかと言えば全然そんなことはないのは一般的常識である。これを日常生活vs学問=ゲームvsメタゲームという図式で考えるなら、メタゲーム的戦略がつねにゲームに貢献できるとは限らない、という話でもある。

 ざっくり言うなら、あのキャラにはこのキャラが相性がいいからこれを使った方が良いよ、と「メタ」なアドバイスをされたとしても、プレイヤーとしては「俺はこのキャラが得意だから相性が悪くてもこれを使ってるんだよ!」と叫びたくなる……という状況は、人生において、あるいは社会においてしょっちゅうあるという話である。

 メタゲーム的視点は往々にしてそれがメタ的であるがゆえにゲームそのものの状況を捉える解像度が低くなりがちで、素朴なゲーム的視点に基づく戦術の方がうまく行くことがままある話である。いくら過去の大量のデータを分析したアドバイスだとしても、それがプレイヤー個人からしてみたら「話にならない」ことはあり得る。(一方で例えば野球では選手個人の感覚からは顧みられることのなかったデータ野球が今日では一定の成功を収めているようだが。)

 メタ的であることによる優位性(より高度な認識に基づいた戦略を可能にする)とは別に、実践的であることの優位性(状況への解像度の高さ)が存在し、両者は比較するとどちらかが常に勝るということはないのだろう。

 本書『メタ認知で〈学ぶ力〉を高める』に話を戻すなら、そういった意味で前半のメタゲーム性紹介+後半のそれを踏まえた実践的な知見紹介という構成は、単にメタ的であるだけでは「実践」から遊離しかねないという問題に対処したものだと言えるかもしれない。

 そろそろこの記事も締めに入ろうかと思うが、最後に「メタゲーム」が言い訳として機能すること、それも無限後退を可能にしかねない危険な言い訳であること、について考えたい。

 といってもそんなに複雑な話ではなく、ゲームでの不利を「これはメタゲーム的な戦略だから問題ない」と主張し、そしてそこで設定したメタゲームでも不利になれば「メタ・メタゲーム的な戦略だから問題ない」と主張する、といったようなことである。この主張が正しいこともあり得る。その場合それはきわめて大局的な観点からの直感に反するが正しい戦略である。しかしこの主張が後付けで、認知科学で言うところの認知的不協和を解消するための記憶の捏造による自己正当化でしかないこともあり得るのではないかという話だ。

 そしてこの危険性を認識したうえで、学問=メタゲームという図式に立ち返るなら、「学問」もそのメタ性がゆえにこのような現実からの無限の逃避先として機能し得ると言うこともできる。

 もちろん、メタ的であることが悪だとは言えない、というよりも、メタ的であること抜きには人間という存在は成り立たない(本書の前半で有名な「心の理論」などもメタ認知の一種として整理される)。一方でメタ的であることが実践的局面=現実からの遊離や逃避になってしまう危険性が存在するのも事実である。

 本書では前半の最後のTopic20において「メタ認知の問題点」を解決するためにはメタメタ認知が必要だ、といった主張がなされるのであるが、メタメタ認知は逃避としてのメタ認知からのさらなる逃避として機能することもあり得ると同時に、認知とメタ認知の関係を認知しそれを調停することも可能性も持つ。

 つまり実践/現実から遊離するメタゲームの問題点を踏まえてそれを改善するというメタ・メタゲームもあり得るのである。また学問の例に戻るならこれは「学問を批判する学問」でありつまるところクリティカルシンキングの重要性の話でもある。

 しばしば矛盾する「実践」と「メタ的であること」を調停することこそが、真に実践的でありなおかつ真にメタ的なストラテジーであると言えるのだろう。

おわりに

 ここまで読んでいただいた方、どうもありがとうございました。

 というわけで『留年大学生読書日記』、こんな感じで好き勝手にやっていくつもりです。

 もし気に入っていただけたなら今後ともお付き合いいただければ。